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オイルショックと「失われた10年」

1973年10月6日に第四次中東戦争が始まると、石油輸出国機構(OPEC)に加盟していたペルシャ湾産油6カ国は、原油公示価格の引き上げを敢行した。さらに、原油生産の削減とイスラエル支援国家への禁輸を決定、12月には、1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。

当時の原油価格の決定権は、セブン・シスターズといわれるいわゆる国際石油資本が握っていたが、第四次中東戦争を契機として、産油国へと移った。原油価格の高騰は、世界経済全体に大きな影響を与えた(オイルショック)。高度経済成長を謳歌していた日本も低成長時代に入っていった。日本は、集積した技術力をもとに省エネルギー技術の開発に邁進することとなり、1980年代以降の経済的な発展を遂げることとなったが、技術力と外貨準備を持っていなかった原油輸入国は急激なハイパーインフレーションを経験することとなった。

インフレ傾向を強めていた先進国経済は、オイルショックによりスタグフレーションに突入、1971年のニクソン・ショックによるドル体制の崩壊と合わせて戦後世界経済の成長体制は崩壊した。オイルショックによって、先進主要各国は高金利政策を維持せざるを得なくなった。その結果、景気の減退が世界規模で起こった。上述したランブイエでの第1回先進7カ国首脳会議(1975年)でも、議題とされたのは第1次オイルショック以降の経済の回復だった。
また、世界経済の後退は、石油を除く一次産品の輸出に依存していたラテンアメリカ諸国やアフリカ諸国の経常収支の悪化を招くこととなった。石油輸入コストの急上昇により債務返済を遅延する事態となり、とくに1982年のメキシコ危機を皮切りに表面化した対外債務問題は、他のラテンアメリカ諸国をも巻き込んだ。その結果、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、ペルー、ニカラグアといった国々は、80年代の平均消費者物価上昇率は200%から600%、年によっては1000%以上の上昇を記録した年もあった。

1980年代以降は、「南南問題」とよばれる開発途上国とされる諸国間での経済格差が顕著となり、特にサハラ以南のアフリカ大陸などでは後発開発途上国(LDC)とよばれる諸国の経済発展の遅れが指摘されるようになった。

一方、1949年以来、経済相互援助会議(COMECON)を結成していたソ連や東ヨーロッパ諸国の共産党支配は、硬直化して現実への適応能力を失い、オイル・ショック後の西側での急激な技術革新にも的確に対応できなかった。そのため、社会主義諸国と先進資本主義諸国との経済的・技術的格差はいっきょに拡大していった。

ヨーロッパの統合

2つの世界大戦によって市民だけでなく政治や経済も荒廃し、さらに鉄のカーテンで分け隔てられたヨーロッパは、その西側諸国ではマーシャル・プランの下で復興が進められた。一方で超大国に成長したアメリカと、ソ連を中心とする社会主義体制の狭間に置かれるなかで、フランスのロベール・シューマン外相が経済と軍事において重要とされる資源の共同管理によってヨーロッパの安定を図ることを提唱した(いわゆるシューマン宣言)。炭鉱のあるザールや、重工業地帯のルール地方は、大戦中に独仏間での争奪戦が激しく、これについての反省がシューマン宣言の基礎となっている。なおシューマン宣言の基礎となる構想は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)のジャン・モネ議長によって提唱され、このためモネは「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれており、シューマン宣言が発表された5月9日は「ヨーロッパ・デー」とされている。1951年にパリ条約が調印され、翌年に欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) が発足した。なおECSCは2002年7月23日にパリ条約の失効に伴って消滅しており、以降はECの柱(後述)にその機能が継承されている。その後経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を目的に、1957年にローマ条約が調印され、翌年に欧州経済共同体 (EEC) と欧州原子力共同体 (Euratom) が設立された。
これら3つの共同体は1965年に調印されたブリュッセル条約により、1967年に欧州共同体 (EC) の下で一体的に運営されるようになる。当初6か国で始まったECは1986年までに加盟国数を12までに増やし、その間、加盟国間での国境通過のような、域内での障壁の除去や単一市場の設立など、経済分野での統合の深化が進められてきた。これはドロール委員会の下で進められた単一欧州議定書やシェンゲン協定による。1989年以降、東欧革命で東側諸国の共産党政権が相次いで倒れる。1990年10月3日にドイツが再統一される。このとき旧東ドイツの各州が西ドイツに編入されたため、ECはその領域をこれらの州に拡大させた。これら諸国が統合ヨーロッパの対象になることが想定され、これに対応するべくECでは政治分野での協力体制の構築が迫られるようになり、1992年に外交と司法・内務分野での協力枠組みをうたったマーストリヒト条約が調印され、1993年11月1日に欧州連合 (EU) が発足した。EUは従来のECの枠組みに共通外交・安全保障政策 (CFSP) と司法・内務協力 (JHA) の枠組みを追加するという「3つの柱」構造を取っている。JHAは後にアムステルダム条約において対象分野の一部がECの枠組みに移され、警察・刑事司法協力 (PJCC) に改められている。経済政策が対象となっているECの柱では、EUの決定が加盟国の政策に優先する超国家主義的な権限が与えられているが、CFSPとPJCCの柱では、加盟国の主権にかかわる政策が対象となっていることから政府間主義が採られ、EUは加盟国間での政策調整を行う権限しか与えられていない。なお後述のリスボン条約では、「3つの柱」構造は廃止されることになっている。

EUにおいて経済分野では通貨統合という段階にいたる。1998年に欧州中央銀行 (ECB) が発足し、翌年には単一通貨ユーロが導入される。実際のユーロ硬貨やユーロ紙幣が使用されるようになったのは2002年1月1日以降。EU基本条約では加盟国に対して将来におけるユーロ導入を義務付けているが、イギリスとデンマークに対しては適用除外規定が存在する。また従来の通貨からユーロに切り替えるさいには、欧州為替相場メカニズム (ERM) に2年間参加したり、経済・財政指標が一定の水準を満たしたりしなければならない。

対外関係においては国際連合や北大西洋条約機構 (NATO) と協力してユーゴスラヴィア紛争の対応にあたるなど、地域の安定化に向けた取り組みを行ってきた。また市民レベルでは欧州連合基本権憲章を制定するほか、民族・言語・文化における多様性の尊重や、労働や開業、投資といった経済活動に関する政策を実行している。一方で東ヨーロッパ諸国が加わり、EUは2004年までにその加盟国数が25にまで拡大し、2007年1月1日以降、EUの加盟国数は27となっている。これに伴って機構の肥大化による行政組織の効率低下が問題となった。ニース条約発効以降、EUにおける内閣にあたる欧州委員会の委員は各加盟国から1名ずつ(それ以前はドイツ、フランス、イタリア、イギリス、スペインから2名ずつ、そのほかの加盟国から1名ずつ)出されることになっている。EUが拡大してきた結果、欧州委員会委員の職域が分掌され、これに伴い行政機構としての欧州委員会の総局間でセクショナリズムが目立つようになってきた。また将来の拡大に向けた体制の整備が求められるようになった。ニース条約体制下では立法手続きなどの制度について、加盟国数が27を超えると対応できない仕組みとなっていた。このことから、ローマ条約やマーストリヒト条約を廃し、新たな基本条約の下でヨーロッパの統合を進めるべく2004年10月28日、欧州憲法条約が調印された。従来はローマ条約とマーストリヒト条約の2つを基本条約とし、その後複数の条約でこれらを修正してきた。条約の一本化はEU法の根源が複数の文書(条約本文および付帯議定書)に分かれていたために可読性が低いという批判もあって、1つの文書にまとめる目的もあった。
欧州憲法条約では欧州連合の旗、欧州連合の歌が定められるなど、ひとつの国家とするような規定が含まれていた。ところがEUの超国家主義的な性格を嫌う欧州懐疑論が燻るなかで、各加盟国内における欧州憲法条約の批准手続きが進められ、フランスとオランダでの批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。加盟国内でヨーロッパ統合に対して反対する例はほかにもある。ノルウェーでは1973年と1995年の拡大にあたって、加盟条約に調印はしていたが、国民投票で条約批准がいずれも反対されている。デンマークの自治領であるグリーンランドは住民投票の結果、1985年にECを離脱している。またマーストリヒト条約の批准において、デンマークで1度国民投票で反対されているほか、イギリスにおいても議会で拒否されている。さらに従来の基本条約を修正するニース条約の批准においても、新たなEU基本条約の批准や既存の基本条約の修正にあたって国民投票の実施が憲法で義務付けられているアイルランドで1度反対されている。ユーロの導入にあたってもポンド危機の経験からイギリスでは消極的な意見が根強く、デンマークやスウェーデンでは国民投票で反対の意思が示されたことがある。

この事態はヨーロッパの統合を進めてきた指導者に動揺を与え、統合に対する「熟慮期間」が設けられることになった。ローマ条約調印50周年となる2007年、将来の新規加盟国の受け入れ態勢の整備とEU機構の効率化に特化した、「改革条約」と位置づける新基本条約の策定で合意がまとまり、同年12月にリスボン条約として調印された。合意された時点での名称は「改革条約」とされていた。この条約の合意をめぐって、2007年6月21-22日の予定で行われていたブリュッセル欧州理事会において協議されていたが、内政を干渉されかねないという懸念を持ったイギリスや、新条約の下でのEUの政策決定の手続きが大国有利であると批判するポーランドなどの一部の加盟国首脳が難色を示した。このため予定されていた日程を大幅に延長し、夜を徹して協議が続けられ、合意がまとまったのは6月23日の午前5時のことだった。

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リスボン条約は2009年末までの発効を目指して各国の批准手続きが進められている。さらに将来の拡大についても、国土の一部がヨーロッパに属するトルコや旧ユーゴスラヴィア連邦構成国、ロシアと距離を置く旧ソヴィエト連邦構成国の加盟について議論が行われている。旧ユーゴスラヴィア連邦構成国の中では2004年5月にはスロヴェニアがすでに加盟しているほか、クロアチアとマケドニア共和国が加盟候補国として実務的な交渉を進めている。旧ソ連邦構成国では独立した際に、ソ連邦内での有力者がそれぞれの国の最高指導者に就いていた例が多い。それらの指導者が独裁ともいえる権力の長期支配を維持した末に、政権腐敗が進み国民の反発を招くようになった。この結果、2003年のグルジアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命など、色の革命と呼ばれる政権交代が起こり、新たに成立した政権は親欧米路線を掲げている事例が多い。

冷戦の終結以降、唯一の超大国となったアメリカが新自由主義を掲げて経済の拡大を図ってきたのに対して、ヨーロッパでは1990年代以降、社会民主主義のもとで第三の道が模索されるようになり、医療・保健、育児、介護、学校教育、職業訓練、失業時給付、生活保護、年金などの国民の生活に必要な福祉サービスを、全てまたは高い公費負担率で提供し、そのための財源として国民は所得の50% -70%を税金や社会保険料として負担する政策[1]を採用している。IMFの統計によると、2007年度は世界のGDPに対してEUは31.0%、ユーロ採用国は22.3%を占めるようになり[2][3]、ユーロは基軸通貨としてUSドルに並ぶ存在となりつつある。またEUは地球温暖化対策にも積極的に取り組み、2005年にはEU域内での排出権取引制度を開始し、温室効果ガスの排出量削減に向けて、ヨーロッパという連合体としての官民一体の体制作りを進めている。前記の諸政策のように、EUは世界において独自の統治モデル・政策を掲げ遂行する存在として、EU域内でもEU域外に対しても大きな影響力を持ち行使するようになった。


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2009年04月19日 12:34に投稿されたエントリーのページです。

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