2009年06月25日

ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し

この年の1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からはバグラチオン作戦が行われ、虚を突かれたドイツ中央軍集団は後退。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。 1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡して10月2日、蜂起は失敗に終わった。

一方、本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして(1940年以降ロンドンにあったフランス亡命政権「自由フランス」の指導者シャルル・ド・ゴール将軍率いる)自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマが解放された。
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敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり1944年7月20日、国内予備軍司令部参謀長伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺計画が実行されたが失敗した。疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるエルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した。[10]

ノルマンディーのドイツ軍は、必至の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦で、ついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。また8月16日には南フランスにも連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。フランスが解放された事により、親独ヴィシー政権は崩壊。指導者フィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になり、何人かの者は国外に逃亡した。また女性は頭髪を丸坊主にされるなどの制裁を受けた。

2009年06月10日

航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能で

当時、航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であったが、空母艦載機の集中使用による大規模空襲はその神話を打ち砕いた。この後12月10日にマレー沖海戦で航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が航空攻撃のみで撃沈されたことにより、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。こうして大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。

真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への侵攻計画は可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。

実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州などへの砲撃や、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が数度に渡り行われた。また戦争開始後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告された。
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アメリカ軍の受けた被害は、戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、人的被害は小さかった。艦船の乗組員の多くは上陸していたためである。乗艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換され、むしろアメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けしたともいえる。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかった。これは沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなった。

沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった。太平洋戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦において大きな力を発揮した。また、日本軍の入手した島の地図が古かったことから、実に合計450万バレル相当を貯蓄していた石油タンクを爆撃せず、海軍幹部の娯楽施設を爆撃してしまったという逸話もある。当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母を撃沈できなかった事は、緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。

2009年06月06日

時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり

時計産業は、17世紀には手工芸的な産業であり、イギリスの独擅場だった。しかし産業革命を経て18?19世紀のアメリカ西部開拓時代になると、正確かつ規格化された鉄道時計の需要が生まれ、アメリカに開発・生産の重心を移していった。ところが大量生産による粗悪化が起こり、20世紀初頭にはアメリカの時計産業は衰退した。対してスイス・ドイツなどで発展した精密機械工業が応用され、精密・堅牢であり高級感がありながら大量に生産されるシステムとして、特にスイスの時計産業が有名になっていった。
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日本での精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。クォーツ時計の発明、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。

この頃にはクロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が数百円で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。ただしこういった安価な製品には粗悪感があり、物としての所有感がないため、スイス・ドイツ・日本の高級精密時計産業がまた盛り返した。『実用的な道具としての時計』と『高級な嗜好品としての時計』に分化していったといえる。

その後21世紀になると、携帯電話等に付属する時計を利用するユーザが多くなったため、前者の『実用的な道具としての時計』産業は衰退しつつある。後者の高級精密時計産業は、特にスイスの時計生産業者がグループ化され統合されて安定しつつある。また、ファッションブランドとの統合による資本の安定、他の産業(自動車・光学・精密・電子機器など)との複合経営による資本の安定や技術の応用・還元などにより、機械式時計もさらなる発展をしつつある。

2009年04月23日

恩賞

恩賞(おんしょう)とは、近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと
日本における恩賞の給与は、古代以降、蝦夷征伐や謀叛の鎮圧に功労のあった武官に対して、朝廷が官位の任官または昇叙を行ったことによる。

9世紀に入り、軍団が形骸化し実質的に消滅していくと、郡司・富豪層や俘囚が「発兵勅符」に基づいて軍事力として編成されるようになり、功績を挙げた郡司・富豪・俘囚に恩賞が与えられた。9世紀末頃からは、「追捕官符」の発布を受けた国司(国衙機構)が自らの裁量で国内の郡司・富豪層を軍事編成するようになり、功績の顕著な者に対しては朝廷から恩賞が給与された。

10世紀前半、東国では寛平・延喜東国の乱、西国では承平南海賊という戦乱が発生しており、両乱の鎮圧に挙げた国司や軍事・富豪(田堵負名)層の功績は非常に高かったが、彼らに対する恩賞は十分なものとは言えず、この不満が高じて承平・天慶の乱の発生要因となった。なお、この過程において、国司(国衙機構)を中心とする軍事制度、すなわち国衙軍制が成立した。

国衙軍制の中では、国司が軍事面における最高指揮者であったため、国司の地位は決定的であった。10世紀から11世紀にかけて、貴族社会において特定の家系が一つの官司を世襲する「官司の家業化」が急速に進展しており、その流れの中で、武芸・軍事を「家業」とする貴族家系(兵の家)が登場していた。兵の家は、受領を歴任し、また押領使・追捕使に補任されるなどし、代々培ったノウハウをもって各地の軍事力を編成するとともに、田堵負名層と私的な主従関係を結ぶ者も現れた。兵の家の一部は11世紀に入ると軍事貴族へと成長した。

11世紀中葉に王朝国家体制が変質すると(後期王朝国家)、田堵負名層の多くは武士化するとともに在地領主化していき、一方、国衙軍制は崩壊し、国司の代わりに代々国押領使・国追捕使の地位を世襲してきた「一国棟梁」を中心とした軍事力編成がなされるようになった。軍事貴族層でもある一国棟梁は、田堵負名層(在地領主層)らの所領を安堵(所領権を保証すること)し、田堵負名層は、軍役に応え戦功に応じてさらに新たな所領を与えられたりした。こうした武功による恩賞の査定・授与を論功行賞という。

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「追捕官符」に基づき、一国棟梁たる軍事貴族らは家人である武士団(=田堵負名層(在地領主層))を率いて謀叛や蜂起を鎮圧すると、軍事貴族自らも恩賞を獲得するとともに、家人の恩賞を朝廷に周旋し、家人の任官・昇叙に関与したり、または荘官職に補任することによって新たな所領を宛がったりした。軍事貴族の中でも、高位の四位に任じられた清和源氏と桓武平氏は、この時代新たに登場した武士層の棟梁、すなわち武家の棟梁と呼びうる存在であった。こうした武家の棟梁に対する恩賞は、所領を棟梁から家人へ分け与える一方、棟梁自らはさらなる勢力拡大のために収入の多い国の国司職や、中央政界における地位向上につながる位階の昇叙、御所への昇殿などを獲得するよう積極的に運動し、源氏や平氏の棟梁はこうした戦功を勝ち得る中で中央政界における地位と、諸国における武力を確立を図っていった。

恩賞給与には常に公平性の問題がつきまとった。勲功の報告は、受領や追捕使・追討使などを通じて行われたため、必ずしも微に入った報告がなされたとは限らず、また報告者によるひいきも行われた可能性もある。そのため、給与された恩賞に対する不満は常に潜在していたと言ってよい。武士にとっての恩賞とは、家門の反映や永続、地位や勢力の維持を図る上で非常に切実な問題であったからである。

中世
平治の乱以降、平氏は新たな秩序を中央政界においても武士社会においても構築していった。この結果、恩賞の仲介者であった武士自らが恩賞の授与権者の地位を獲得するようになった。平氏政権は人事や荘園の多くを掌握し、恩賞を差配する地位につくことでその権力を強固なものとし、諸国の武士を支配した。しかし、武士の間では平氏からの恩賞給与に対する不満が多かれ少なかれ存在していたとされ、このことが治承・寿永の内乱へつながる一要因になったとされている。

平氏政権に次いで、武家政権を確立したのが源頼朝である。源頼朝を政治的な基盤は関東武士団だったが、頼朝にとって彼ら関東武士の支持を得ることが最重要課題であったため、寿永・治承の内乱から奥州合戦に至るまでの恩賞給与に当たっては、関東武士らの満足が得られるものとなるよう最深の注意を傾注した。やがて、鎌倉時代が進むと、恩賞の概念はより多様化した。御家人には軍忠状を提出して軍功と引き換えに恩賞を請求する権利が与えられ、恩賞奉行などがこの請求を審査した。これに基づいて所領の給与や地頭職・荘官職・有司職への補任などの形式を取って新たな土地財産権が給付された。また、既存の所領で紛争を抱えていた場合には安堵状による所領保障が恩賞となりうることもあった。更に朝廷の官職への推挙権や幕府の役職も恩賞の対象となり、地方の御家人が守護への補任により勢力を拡大させたり、中央政界に進出するきっかけをも作った。また、純粋な恩賞とはいい難いが、鎌倉殿や執権が御家人に対して偏諱を与えるようになり、特に鎌倉殿の偏諱はきわめて重い栄誉とされた。また、武勲を褒め称える感状の授与も鎌倉時代以降の慣習である。

そうした恩賞のあり方は南北朝時代や室町時代を通じて、基本的に踏襲されていったが、南北朝時代には室町幕府の守護が自らの家人に対して、官途状を発給し、事実上の官職の私称を許す、受領名の授与が行われるようになった他、幕府や鎌倉公方が足利氏一門や有力守護に裏書免許、屋形号免許、塗輿免許、白傘袋毛氈鞍覆免許などの格式を許すこともなされるようになり、守護代に対しても塗輿や唐傘袋毛氈鞍覆の免許を行うようになり、恩賞のあり方はきわめて多様化した。

偏諱については室町時代にも行われ、幕府への寄進や寄付に応じ、足利将軍家の通り名である「義」の字、または代々の諱の下の文字を与え、いわば将軍直臣の格式を示す栄誉として戦国時代に至るまで発給され続けた。

将軍家の通り名である「義」の字は、歴代将軍の諱の下の字よりも格式が高く、斯波義良他、代々の斯波氏当主、一色義道他代々の一色氏家督、仁木義長らの足利一門、西国一の名門といわれた大内義隆などの有力守護、もとは守護代で守護、最盛期は西国に11ヶ国の所領を得た尼子義久などが代表的である。将軍の一字を賜った大名には、畠山尚順ら畠山氏、細川晴元ら代々の細川氏当主、守護代の家系から越後国主となった長尾為景の後継長尾晴景・上杉輝虎兄弟をはじめ武田晴信(信玄)、筒井藤勝(順慶)、毛利輝元、尼子晴久などが著名である。なお、歴代将軍の中には中途で改名したものもおり、改名以前にその当時の下の字が与えられている例もあるので注意を要する(足利義稙(義材)の「材」、足利義澄(義高)の「高」、足利義輝(義藤)の「藤」など)。

2009年04月19日

オイルショックと「失われた10年」

1973年10月6日に第四次中東戦争が始まると、石油輸出国機構(OPEC)に加盟していたペルシャ湾産油6カ国は、原油公示価格の引き上げを敢行した。さらに、原油生産の削減とイスラエル支援国家への禁輸を決定、12月には、1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。

当時の原油価格の決定権は、セブン・シスターズといわれるいわゆる国際石油資本が握っていたが、第四次中東戦争を契機として、産油国へと移った。原油価格の高騰は、世界経済全体に大きな影響を与えた(オイルショック)。高度経済成長を謳歌していた日本も低成長時代に入っていった。日本は、集積した技術力をもとに省エネルギー技術の開発に邁進することとなり、1980年代以降の経済的な発展を遂げることとなったが、技術力と外貨準備を持っていなかった原油輸入国は急激なハイパーインフレーションを経験することとなった。

インフレ傾向を強めていた先進国経済は、オイルショックによりスタグフレーションに突入、1971年のニクソン・ショックによるドル体制の崩壊と合わせて戦後世界経済の成長体制は崩壊した。オイルショックによって、先進主要各国は高金利政策を維持せざるを得なくなった。その結果、景気の減退が世界規模で起こった。上述したランブイエでの第1回先進7カ国首脳会議(1975年)でも、議題とされたのは第1次オイルショック以降の経済の回復だった。
また、世界経済の後退は、石油を除く一次産品の輸出に依存していたラテンアメリカ諸国やアフリカ諸国の経常収支の悪化を招くこととなった。石油輸入コストの急上昇により債務返済を遅延する事態となり、とくに1982年のメキシコ危機を皮切りに表面化した対外債務問題は、他のラテンアメリカ諸国をも巻き込んだ。その結果、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、ペルー、ニカラグアといった国々は、80年代の平均消費者物価上昇率は200%から600%、年によっては1000%以上の上昇を記録した年もあった。

1980年代以降は、「南南問題」とよばれる開発途上国とされる諸国間での経済格差が顕著となり、特にサハラ以南のアフリカ大陸などでは後発開発途上国(LDC)とよばれる諸国の経済発展の遅れが指摘されるようになった。

一方、1949年以来、経済相互援助会議(COMECON)を結成していたソ連や東ヨーロッパ諸国の共産党支配は、硬直化して現実への適応能力を失い、オイル・ショック後の西側での急激な技術革新にも的確に対応できなかった。そのため、社会主義諸国と先進資本主義諸国との経済的・技術的格差はいっきょに拡大していった。

ヨーロッパの統合

2つの世界大戦によって市民だけでなく政治や経済も荒廃し、さらに鉄のカーテンで分け隔てられたヨーロッパは、その西側諸国ではマーシャル・プランの下で復興が進められた。一方で超大国に成長したアメリカと、ソ連を中心とする社会主義体制の狭間に置かれるなかで、フランスのロベール・シューマン外相が経済と軍事において重要とされる資源の共同管理によってヨーロッパの安定を図ることを提唱した(いわゆるシューマン宣言)。炭鉱のあるザールや、重工業地帯のルール地方は、大戦中に独仏間での争奪戦が激しく、これについての反省がシューマン宣言の基礎となっている。なおシューマン宣言の基礎となる構想は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)のジャン・モネ議長によって提唱され、このためモネは「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれており、シューマン宣言が発表された5月9日は「ヨーロッパ・デー」とされている。1951年にパリ条約が調印され、翌年に欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) が発足した。なおECSCは2002年7月23日にパリ条約の失効に伴って消滅しており、以降はECの柱(後述)にその機能が継承されている。その後経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を目的に、1957年にローマ条約が調印され、翌年に欧州経済共同体 (EEC) と欧州原子力共同体 (Euratom) が設立された。
これら3つの共同体は1965年に調印されたブリュッセル条約により、1967年に欧州共同体 (EC) の下で一体的に運営されるようになる。当初6か国で始まったECは1986年までに加盟国数を12までに増やし、その間、加盟国間での国境通過のような、域内での障壁の除去や単一市場の設立など、経済分野での統合の深化が進められてきた。これはドロール委員会の下で進められた単一欧州議定書やシェンゲン協定による。1989年以降、東欧革命で東側諸国の共産党政権が相次いで倒れる。1990年10月3日にドイツが再統一される。このとき旧東ドイツの各州が西ドイツに編入されたため、ECはその領域をこれらの州に拡大させた。これら諸国が統合ヨーロッパの対象になることが想定され、これに対応するべくECでは政治分野での協力体制の構築が迫られるようになり、1992年に外交と司法・内務分野での協力枠組みをうたったマーストリヒト条約が調印され、1993年11月1日に欧州連合 (EU) が発足した。EUは従来のECの枠組みに共通外交・安全保障政策 (CFSP) と司法・内務協力 (JHA) の枠組みを追加するという「3つの柱」構造を取っている。JHAは後にアムステルダム条約において対象分野の一部がECの枠組みに移され、警察・刑事司法協力 (PJCC) に改められている。経済政策が対象となっているECの柱では、EUの決定が加盟国の政策に優先する超国家主義的な権限が与えられているが、CFSPとPJCCの柱では、加盟国の主権にかかわる政策が対象となっていることから政府間主義が採られ、EUは加盟国間での政策調整を行う権限しか与えられていない。なお後述のリスボン条約では、「3つの柱」構造は廃止されることになっている。

EUにおいて経済分野では通貨統合という段階にいたる。1998年に欧州中央銀行 (ECB) が発足し、翌年には単一通貨ユーロが導入される。実際のユーロ硬貨やユーロ紙幣が使用されるようになったのは2002年1月1日以降。EU基本条約では加盟国に対して将来におけるユーロ導入を義務付けているが、イギリスとデンマークに対しては適用除外規定が存在する。また従来の通貨からユーロに切り替えるさいには、欧州為替相場メカニズム (ERM) に2年間参加したり、経済・財政指標が一定の水準を満たしたりしなければならない。

対外関係においては国際連合や北大西洋条約機構 (NATO) と協力してユーゴスラヴィア紛争の対応にあたるなど、地域の安定化に向けた取り組みを行ってきた。また市民レベルでは欧州連合基本権憲章を制定するほか、民族・言語・文化における多様性の尊重や、労働や開業、投資といった経済活動に関する政策を実行している。一方で東ヨーロッパ諸国が加わり、EUは2004年までにその加盟国数が25にまで拡大し、2007年1月1日以降、EUの加盟国数は27となっている。これに伴って機構の肥大化による行政組織の効率低下が問題となった。ニース条約発効以降、EUにおける内閣にあたる欧州委員会の委員は各加盟国から1名ずつ(それ以前はドイツ、フランス、イタリア、イギリス、スペインから2名ずつ、そのほかの加盟国から1名ずつ)出されることになっている。EUが拡大してきた結果、欧州委員会委員の職域が分掌され、これに伴い行政機構としての欧州委員会の総局間でセクショナリズムが目立つようになってきた。また将来の拡大に向けた体制の整備が求められるようになった。ニース条約体制下では立法手続きなどの制度について、加盟国数が27を超えると対応できない仕組みとなっていた。このことから、ローマ条約やマーストリヒト条約を廃し、新たな基本条約の下でヨーロッパの統合を進めるべく2004年10月28日、欧州憲法条約が調印された。従来はローマ条約とマーストリヒト条約の2つを基本条約とし、その後複数の条約でこれらを修正してきた。条約の一本化はEU法の根源が複数の文書(条約本文および付帯議定書)に分かれていたために可読性が低いという批判もあって、1つの文書にまとめる目的もあった。
欧州憲法条約では欧州連合の旗、欧州連合の歌が定められるなど、ひとつの国家とするような規定が含まれていた。ところがEUの超国家主義的な性格を嫌う欧州懐疑論が燻るなかで、各加盟国内における欧州憲法条約の批准手続きが進められ、フランスとオランダでの批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。加盟国内でヨーロッパ統合に対して反対する例はほかにもある。ノルウェーでは1973年と1995年の拡大にあたって、加盟条約に調印はしていたが、国民投票で条約批准がいずれも反対されている。デンマークの自治領であるグリーンランドは住民投票の結果、1985年にECを離脱している。またマーストリヒト条約の批准において、デンマークで1度国民投票で反対されているほか、イギリスにおいても議会で拒否されている。さらに従来の基本条約を修正するニース条約の批准においても、新たなEU基本条約の批准や既存の基本条約の修正にあたって国民投票の実施が憲法で義務付けられているアイルランドで1度反対されている。ユーロの導入にあたってもポンド危機の経験からイギリスでは消極的な意見が根強く、デンマークやスウェーデンでは国民投票で反対の意思が示されたことがある。

この事態はヨーロッパの統合を進めてきた指導者に動揺を与え、統合に対する「熟慮期間」が設けられることになった。ローマ条約調印50周年となる2007年、将来の新規加盟国の受け入れ態勢の整備とEU機構の効率化に特化した、「改革条約」と位置づける新基本条約の策定で合意がまとまり、同年12月にリスボン条約として調印された。合意された時点での名称は「改革条約」とされていた。この条約の合意をめぐって、2007年6月21-22日の予定で行われていたブリュッセル欧州理事会において協議されていたが、内政を干渉されかねないという懸念を持ったイギリスや、新条約の下でのEUの政策決定の手続きが大国有利であると批判するポーランドなどの一部の加盟国首脳が難色を示した。このため予定されていた日程を大幅に延長し、夜を徹して協議が続けられ、合意がまとまったのは6月23日の午前5時のことだった。

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リスボン条約は2009年末までの発効を目指して各国の批准手続きが進められている。さらに将来の拡大についても、国土の一部がヨーロッパに属するトルコや旧ユーゴスラヴィア連邦構成国、ロシアと距離を置く旧ソヴィエト連邦構成国の加盟について議論が行われている。旧ユーゴスラヴィア連邦構成国の中では2004年5月にはスロヴェニアがすでに加盟しているほか、クロアチアとマケドニア共和国が加盟候補国として実務的な交渉を進めている。旧ソ連邦構成国では独立した際に、ソ連邦内での有力者がそれぞれの国の最高指導者に就いていた例が多い。それらの指導者が独裁ともいえる権力の長期支配を維持した末に、政権腐敗が進み国民の反発を招くようになった。この結果、2003年のグルジアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命など、色の革命と呼ばれる政権交代が起こり、新たに成立した政権は親欧米路線を掲げている事例が多い。

冷戦の終結以降、唯一の超大国となったアメリカが新自由主義を掲げて経済の拡大を図ってきたのに対して、ヨーロッパでは1990年代以降、社会民主主義のもとで第三の道が模索されるようになり、医療・保健、育児、介護、学校教育、職業訓練、失業時給付、生活保護、年金などの国民の生活に必要な福祉サービスを、全てまたは高い公費負担率で提供し、そのための財源として国民は所得の50% -70%を税金や社会保険料として負担する政策[1]を採用している。IMFの統計によると、2007年度は世界のGDPに対してEUは31.0%、ユーロ採用国は22.3%を占めるようになり[2][3]、ユーロは基軸通貨としてUSドルに並ぶ存在となりつつある。またEUは地球温暖化対策にも積極的に取り組み、2005年にはEU域内での排出権取引制度を開始し、温室効果ガスの排出量削減に向けて、ヨーロッパという連合体としての官民一体の体制作りを進めている。前記の諸政策のように、EUは世界において独自の統治モデル・政策を掲げ遂行する存在として、EU域内でもEU域外に対しても大きな影響力を持ち行使するようになった。


2009年04月04日

枡席

枡席(ますせき、升席とも)とは、日本の伝統的な観客席。土間や板敷きの間を木組みによって人4人が座れるほどの正方形に仕切り、これを「一枡」として観客に提供したことからこう呼ばれるようになった。

歴史と背景 [編集]
枡席は江戸時代の初め頃から歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋で普及しはじめた。

芝居小屋の枡席は一般に「土間」(どま)と呼ばれ、料金は最も安く設定されていた。これは初期の芝居小屋には屋根を掛けることが許されておらず、雨が降り始めると土間は水浸しになって芝居見物どころではなくなってしまったからである。瓦葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは享保9年 (1724) のことで、雨天下の上演が可能になった結果、この頃から土間は板敷きとなる。すると枡席にも段差が設けられるようになり、舞台近くを「平土間」(ひらどま)、後方を「高土間」(たかどま)といった。土間の両脇には一段高く中二階造りにした板敷きの「桟敷」(さじき)があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「座席」(ざせき)があった。料金は現在とは逆で、上へいくほど高くなった。

やがてそれぞれの枡席には座布団が敷かれ、煙草盆(中に水のはいった木箱の灰皿)が置かれるようになった。枡席にお茶屋から出方が弁当や飲物を運んでくるようになったのもこの頃からである。当時の芝居見物は早朝から日没までの一日がかりの娯楽だったので、枡席にもいくらかの「居住性の改善」が求められたのである。
明治になると東京をはじめ各都市に新しい劇場が建てられてたが、そのほぼすべてが枡席を採用していた。文明開化を謳ったこの時代にあっても、日本人は座布団の上に「坐る」方が居心地が良かったのである。全席を椅子席にして観客が「腰掛ける」ようにしたのは、演劇改良運動の一環として明治22年 (1889) に落成した歌舞伎座が最初だった。これを境に以後の劇場では専ら椅子席が採用されるようになり、昭和の戦前頃までには、地方の伝統的小劇場を除いて、枡席は日本の劇場からほとんどその姿を消してしまった。

相撲興行の枡席 [編集]

歴史と背景 [編集]
一方、勧進相撲として発達した大相撲は、その歴史的背景から各地の寺社の境内で不定期に興行されるのが常態で、長らくの専用の競技場を持たなかった。江戸では天保4年 (1833) 以降にようやく本所・回向院での相撲興行が定着する。

劇場の場合とは対照的に、相撲興行の場から枡席は一度もその姿を消すことがなかった。明治以後も大相撲の開催地では、土俵も観客席も数日間の興行に耐えられるだけの仮仕立てで造ればよかったため、木組みで簡単に客席を仕切ることができる枡席はかえって好都合だったのである。

回向院の境内に初めて常設の競技場「國技舘」(旧両国国技館)が建てられたのは実に明治42年 (1909) になってのことだった。この常設の國技舘にも枡席が導入され、しかもその後の相次ぐ失火や震災による焼失と再建の際にもそれを存続させたことが、枡席が大相撲の会場とは不可分の伝統として定着する契機となった。國技舘は戦時中に陸軍によって接収され、以後大相撲は後楽園球場・神宮外苑の相撲場・日本橋浜町公園の仮設国技館を経て、昭和25年 (1950) からは蔵前国技館で、昭和60年 (1985) 以後は新両国国技館で興行されるようになるが、これらすべての会場に枡席が設けられたのである。

この間に変ったことといえば、枡席の土台が木組みから鉄骨組みになったこと、そしてそれまで枡席では認められていた喫煙が平成17年 (2005) から全面禁止となり、枡席にあった煙草盆が姿を消したことぐらいなもので、今日目にする大相撲本場所の模様は、往時のそれとほとんど変わらないものとなっている。

現状と課題 [編集]
今日大相撲本場所が行なわれる両国国技館・大阪府立体育会館・愛知県体育館・福岡国際センターでは、いずれも一階席のほぼ全席が高土間式の枡席となっている。国技館は耐火建材の土台にのった恒常床、他の三会場は鉄骨組みの仮設床が、それぞれ約1.5メートル四方の枡に仕切られ、そこに所定数の座布団が敷かれている。

国技館では「四人枡」「五人枡」「六人枡」の三種類の枡席があるが、その大多数が伝統的な「四人枡」で、枡の中には4枚の座布団が所狭しと敷かれている。「四人枡」とは、「その枡には4人まで坐ることができる」という意味である。したがって一人や二人でこれを使っても構わないのだか、料金はあくまでも枡ごとの料金なので、頭数が少ないと一人当たりの負担が増加する。例えば3万6800円の枡席Cを、4人で使えば一人当たり9200円、3人で一人当たり1万2267円、2人だと一人当たり1万8400円という高額の負担となる。このため少々窮屈でも「四人枡」はやはり四人で使っているのがほとんどである。

実際、約1.5メートル四方に4人が坐るというのは、今日の日本人の体格からみるとかなり窮屈な状態で、そこに出方が弁当や飲物を運んでくると、もう足の踏み場もないほどになってしまう。国技館では昨今の観客数の減少に歯止めをかける改革の一環として、特別限定チケット「二人枡」を試験的に導入したが、その数はまだ極めて少数に止まっている。一方、大阪・名古屋・福岡の各会場でも観客の要望に応えるかたちで「二人枡」や「三人枡」を新たに導入し初めている。

大相撲の枡席をめぐるもう一つの課題として、その購入方法の問題があげられる。一概に枡席といっても、そこには土俵に近いものから遠いもの、土俵が観やすいものから観にくいものいものなど、さまざまな条件がある。ところが国技館では、一般に「良い枡席」と考えられている枡席のほぼすべてを「相撲案内所」と呼ばれる20軒の相撲茶屋(お茶屋)が占有しており、これらを通してでなければ良い枡席のチケットは購入することができない。各種プレイガイドやインターネットでも枡席のチケットを購入することはできるが、それでは観にくい枡席しか取れないというのが現状である。

ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ


2009年03月20日

山陽本線優等列車沿革

山陽本線優等列車沿革(さんようほんせんゆうとうれっしゃえんかく)とは、山陽鉄道による開業より山陽本線を経由して運行された特急列車・急行列車・準急列車の運行の沿革を主に記載する。

なお、以下のものについては、2009年現在運行されているないしは、それとの関連性が高いものについては記載を除外しているものがある。また、主に東京圏を始発・終着とし、東海道本線から直通した列車に関しては東海道本線優等列車沿革の項目も参照されたい。

山陽本線(在来線)の別線とされた山陽新幹線(新幹線)の列車群・・・当該項目及び「のぞみ」・「ひかり」・「こだま」の各列車項目。
主に宇野線・宇高航路を介しての本州対四国連絡列車・・・マリンライナー。

列車の沿革 [編集]
大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

山陽鉄道時代 [編集]
1888年(明治21年)11月 現在の山陽本線を建設・運営した私鉄である「山陽鉄道」が、初の開業区間である兵庫駅?明石駅間を開通させる。
1889年(明治22年)9月 山陽鉄道は神戸駅?兵庫駅間を開業させ、官営による現在の東海道本線と連絡するようになった。
1894年(明治27年)10月 山陽鉄道が、神戸駅?広島駅間(この年6月に開業)に日本初の長距離急行列車を運行開始。この当時は急行料金は徴収せず、普通列車同様乗車券のみで乗車できた。神戸?広島の所要時間は上下列車それぞれ8時間47分・56分であった。
1895年(明治28年)10月 急行列車は官営鉄道東海道本線に乗り入れ、関西の発着駅を京都駅とする。(後には大阪駅発着の列車も設定)
1899年(明治32年)5月 当時昼行・夜行あわせて4往復あった急行列車の内1往復に日本初となる食堂車を連結。
1900年(明治33年)4月 夜行急行列車1往復に、日本初となる寝台車を連結。
1901年(明治34年)5月 山陽鉄道が神戸駅?下関駅間を全通させる。4往復の直通急行列車が設定され、うち1往復は「最急行」と呼ばれ特に高速で走った。神戸?下関間の最急行の所要時間は上下それぞれ12時間35分・40分であった。
1903年(明治36年)2月 最急行は神戸?下関間の所要時間を上下それぞれで11時間30分・20分にまで短縮、日露戦争前の最高記録となった。
1904年(明治37年)7月 日露戦争勃発の影響により、急行列車が全廃。
1905年(明治38年)8月 官営鉄道の東海道本線と乗り入れ、新橋駅?下関駅間直通の急行列車を登場させる。しかしながら時期尚早だったのか、3ヶ月で廃止となった。新橋?下関の所要時間は上下それぞれ35時間16分・5分だった。
1906年(明治39年)4月 「最急行」が復活、しかし神戸?下関間の所要時間は13時間30分前後と戦前よりだいぶ遅くなった。
1906年(明治39年)12月 山陽鉄道、 鉄道国有法の公布により国有化。

2009年03月05日

熾天使(してんし)

熾天使(してんし)は、天使の位階のひとつ。ヘブライ語で単数形は ?????? Ś?rāp_ セラフ、複数形は????????? Ś?rāp_îm セラフィム(セラーフィーム)となる。(※ヘブライ語は右から読む言語のため、ここの記載でも該当部分だけは右読み表記となっている。)ギリシア語ではΣεράφ, Σεραφείμ/Σεραφίμ、ラテン語では Seraph, Seraphim と呼ばれており、ヘブライ語の音写がそのまま使われている。

偽ディオニシウス・アレオパギタが定めた天使の九階級のうち最上とされている。三対六枚の翼を持ち、2つで頭を、2つで体を隠し、残り2つの翼ではばたく。神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

『民数記』にはネハシム-セラフィム(「燃える蛇たち」)が出てくるが、これは火のごとき空を飛ぶ蛇の姿であるという。

ラファエル、ウリエル、ミカエル、ガブリエルの四大天使がこれに該当すると思われがちだが、彼らは大天使であり偽ディオニシウス・アレオパギタが定めた天使の九階級のうち下から二番目の階級である。
『イザヤ書』には、以下のような熾天使の描写がある。

私は、主が王座の上に座って、顔を上げられるのを見ました。 彼の上に、セラフィムは立っていました。それぞれには、6つの翼があり、2つの翼で、彼は顔を隠した。そして、2つの翼で足を覆った。そして、2つの翼で飛翔されたのです。

? 『イザヤ書』6:1?3

『ヨハネの黙示録』の熾天使
セラフィムは、また、いつまでも神の存在が永遠であるようヨハネの黙示録で言及されて、絶えず彼を称賛している。『「昼夜、彼らは、言うのを決して止めません」 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるであることは、主の元に来ることができる。』と常にたたえている。

フィクションへの影響
セラフィモン:デジタルモンスターのうちの一体。熾天使型デジモン。
ウイングガンダムセラフィム:新機動戦記ガンダムW ?ティエルの衝動? に登場するモビルスーツ。
セラヴィーガンダム:機動戦士ガンダム00に登場するモビルスーツ。機体番号GN-008、殲滅戦用。
セラフィムガンダム:機動戦士ガンダム00に登場するモビルスーツ。機体番号GN-009、セラヴィーガンダムのバックパックが分離変形したものである。
熾天使・暁緒:ZONE-00に登場する八咫烏・毘沙門の二つ名。

2009年02月13日

瑠璃色の雪

主人公は両親に先立たれ、家賃激安の幽霊話付きの部屋へ引っ越すことになる。ところがその床下から、見るからに怪しげな封印を施した壺が。成り行きで開封すると、金髪碧眼で風変わりな和装の少女が現れる。宙に浮き、姿を消すこともできる彼女との奇妙な共同生活に加え、幼馴染みや同級生たちとのにぎやかな日々が始まる。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

真鍋 博士(まなべ ひろし)
本作の主人公。17歳でマッドサイエンティストを志し、既に怪しげな装置を自作する技量を持っている。当然、科学至上主義でオカルトは一切信じなかったが、瑠璃という生きて飛び回る超常現象と同居する羽目になり、視野も広がった。
両親と死別し、家賃激安のマンションでひとり暮らしを始めた矢先に床下の奇妙な壺を発見する。
眼鏡の風貌は一見するとダサイと思われがちだが、コンタクトレンズを付けたり、素顔になった時は二枚目。苦手な科目は古文。
瑠璃(るり)
博士が封印を解いた壺から出現した。実は雪女と淫魔のハーフで、男の精気を吸い取ってしまうため封ぜられたのだが、記憶を失ない明るく無邪気な性格になっている。
博士と、その周囲の人間達に触れあっていくうちに、次第に友情や愛情といった人間的感情を覚え、博士に好意を持つようになる。
こるり
WIN版『真・瑠璃色の雪』に登場する。
瑠璃と博士の間に割り込むようになった謎の幼女。瑠璃の記憶喪失の意味の鍵を握る。当初は博士を「うつけ」と呼んで侮蔑していたが、博士と瑠璃の関係を見ていて、次第に心が動き始める。
奈川 陽子(ながわ ようこ)
博士の幼馴染みで17歳。寿と3人でよく遊んでいた。科学部の副部長として博士のお目付役を務める。外見は当時人気だったメガネっ娘でありながら、性格は反対に気が強くて博士や兄を叱りとばすしっかり者だが、少し抜けている面もある。
博士の素顔が二枚目であることは、陽子だけが知っており、小さい頃から博士に好意を抱いていた。
教野 香織(きょうの かおり)
超常現象研究部の顧問で、学校で教える教科は古文。
博士と陽子の担任。ショートカットで26歳のすこし厳しいタイプだが、迷いも秘めており、オタク的気質のために恋人に振られたという過去を持っている。
博士の素顔に触れたりして、次第に教師と教え子という関係を越えていく。
園村 若葉(そのむら わかば)
博士の同級生で活発な少女。勉強は苦手で博士とはケンカ友達、陽子とは友人同士。思いこんだら一直線な性格で、以前駆け落ち騒ぎを起こしたことがある。双子の双葉にコンプレックスを抱いている。
以前は女子バスケットボール部に所属していたが、過去のトラブルがきっかけで廃部している。ジェットコースターといった遊園地の絶叫マシンが苦手。
園村 双葉(そのむら ふたば)
若葉の姉で家業の花屋を手伝う孝行娘。成績もよく優等生タイプだが、実は若葉に対し、より以上にコンプレックスを抱いている。性的にはマゾヒストで、唯一レイプされてもバッドエンドにならない(逆に結ばれるための条件となっている)。また、ゲーム展開で姉妹ダブルで結ばれるエンディングを迎えることも出来る。
妹と違い、遊びや刺激に飢えているので、絶叫マシンも平気。
星野 恵(ほしの めぐみ)
占い好きの下級生で、最初、謎の占い師として登場する。
フードの下の素顔は幼い容貌と性格の持ち主だが、厳格な父の監視に辟易して運命の人を待ち望んでいた。そして占いの(偶然の)導く博士に恋をする。ちなみに、エンディングでは非常な子だくさんとなっている。
奥里 雪那(おくさと ゆきな)
駆け落ちした夫に先立たれ、一人娘とともに町に住む24歳の雪女。雪女の性質を抑え、普通のOLをしている。成り行きから瑠璃にアドバイスや特訓の教官(トップをねらえがモチーフ)を買って出る。
何よりも娘の真那を愛しているため、真那が懐いた博士に好意を抱く。
日野宮 綾霞(ひのみや あやか)
瑠璃を封ずる為にこの町を訪れた、21歳の若き退魔師。巫女の装束をまとい襲撃してくるが、瑠璃の人柄に理解を示し、手を引く。
博士に対しては、幼い頃に自身の両親を殺害した妖魔を抹殺しようとした時に、博士の父親を巻き添えにしてしまった事で深い負い目を抱いている。
三矢 美弥(みつや みや)
博士がバイトするアイスクリームチェーン店「ハーフ&ハーフ」の先輩フリーター20歳。ダメな彼氏との関係に悩んでいて、その流れで博士との関係に発展していく。タレ目。
店長とは親戚関係にあたる。
奈川 寿(ながわ ことぶき)
陽子の兄で上級生。オカルト好きで博士とは正反対でありながら、無二の親友。博士は名前も頭もめでたいヤツ、と評している。瑠璃に惚れ込み、崇拝している。大抵のエンディングで瑠璃と付き合っているようだが、清い関係から進めていないふしがある。
WIN版では篠原貴子と関係を結ぶシーンもある。
奥里 真那(おくさと まな)
雪那の娘で幼稚園児。4歳で雪那が愛情を一身に注いでおり、真那もそんな母親を愛している。
袴田 武(はかまだ たけし)
博士のバイト先の「ハーフ&ハーフ」店長。男色家で博士が眼鏡を外すと美形であることに気付き、自腹でコンタクトをあつらえ、バイト中はそれを使うよう指示する。
性格はオカマっぽい(同級生の喫茶店マスターと似た性格)が、親戚である美弥のことを本気で心配したり、博士のバイト時間の遅れにも寛容だったりと包容力を備えた、人が出来ている人物である。
篠原 貴子(しのはら たかこ)
科学部前部長の上級生。博士と違って超常現象をも研究対象と捉え、瑠璃を監禁して陵辱しようと画策する。同性愛者で陽子のことも狙っている。ちなみにボツになった陵辱される陽子のグラフィックが、スタッフルームで閲覧できた。
WIN版では寿との関係によって、女としての性に目覚めていく。
美佐子(みさこ)
香織の元同級生で一応友人関係だが、内心では見下している。彼女に彼氏の居ないことをからかわれた香織が博士に代役を頼んだことが、ふたりの関係を進展させるきっかけとなる(ただし、選択によっては美佐子と関係する)
お水系の商売をしており。香織よりも男心を掴む術に長けている。
沢田 祐二(さわだ ゆうじ)
美弥のダメ彼。気持ちが冷めかけた美弥につきまとい、今で言うストーカーに成りつつある。
学生時代に美弥を庇って喧嘩になって退学してしまい、ヤクザ関係の方に流れてしまった為に、その事で美弥は負い目を抱いている。
恵の父親
雪那の上司でもあり、ホテルへ誘っているところを恵に目撃される。思わぬ父の姿に動揺した恵は家出して博士の部屋に転がり込む。
疾月(はやつき)
綾霞の兄で、凄腕の退魔師。実は博士の部屋のお隣さんだったが、普段はぼんやりした感じで同一人物とは思えない。瑠璃を監視するため部屋を借りていた様子。
WIN版では対魔対象である雪那と恋に落ち、真那の父親となったが、厳格な決まりから雪那親娘を捨てた過去を持つ。

スタッフ
原画:リバ原あき
シナリオ:リバ原あき、樋口和真
音楽:一色由比、I've
オープニング主題歌『氷結の夜』
作詞:リバ原あき、作曲:一色由比、編曲:高瀬一矢、歌:島宮えい子
挿入歌『子守唄』
作詞・作曲:一色由比、編曲:高瀬一矢、歌:島宮えい子
エンディング主題歌『瑠璃色の雪 ?ふりむけば隣に? 』
作詞:リバ原あき、作曲:一色由比、編曲:高瀬一矢、歌:TAKAMI

特色
各ヒロインは愛情値のパラメーターを持ち、選択肢によって増減する。

エンディング
選択したルートによって結ばれるヒロインが決まり、瑠璃の行動によってエンディングが分かれる。そのほか、バッドエンドが2つある。

陽子1 陽子と変わらない日常を送る
陽子2 結婚して女の子が生まれる
香織1 卒業式を待って告白する
香織2 秘密の交際をはじめる
若葉1 同窓会をサボる博士が若葉と再会
若葉2 結婚して主婦となり、愛情生活
双葉1 瑠璃の居ない寂しさを双葉に癒される
双葉2 恋人同士となり、双葉はコンテストで準優勝
若葉&双葉 3人で暮らすため、一夫多妻の国へ移住
恵1 父の看病のため一旦離れ、数年後再会
恵2 結婚して子だくさん
雪那1 結婚して男の子が生まれ、4人家族に
雪那2 同棲して3人仲良く暮らす
綾霞1 孫に囲まれた老夫婦となり、縁側でひなたぼっこ
綾霞2 女王様に目覚めた綾霞と同棲
綾霞3 (サターン版) 綾香がお天気お姉さんとなる。
美弥1 結婚式で瑠璃のことを回想する
美弥2 幸せな結婚生活を送る二人
瑠璃1 淫魔の性質を克服できた瑠璃が同級生として同棲
瑠璃2 淫魔の性質を克服しきれなかった瑠璃が姿を消す
瑠璃3 淫魔と化した瑠璃に取り殺される

2009年01月27日

Su-9 (航空機)

Su-9(スホーイ9、スホイ9;ロシア語:Су-9スー・ヂェーヴャチ)は、ソ連のスホーイ設計局で開発された迎撃戦闘機(Истребитель-перехватчик)である。1960年代にソ連の防空軍の主力機として使用された。

高高度で領空に侵入してくる偵察機・情報収集機の迎撃を主要任務とした。当時のソ連では、最速のそして最も高い高度を飛行できる最高性能の戦闘機であった。運用現場では、その主翼の形状から「三角帽」、「バラライカ」と渾名された。U-2撃墜事件の際に迎撃に上がった機体として話題にのぼることも多い。北大西洋条約機構(NATO)では、識別のためSu-9に対し「フィッシュポット」(Fishpot)というNATOコードネームを割り当てた。

ソ連の航空機技術者であったベラルーシ人のパーヴェル・オーシポヴィチ・スホーイは、第二次世界大戦中はSu-2の開発などで知られたが、政治的な事情もありあまり大きな業績を残すことはできなかった。スホーイはエルモラーエフの設計局で行われていた双発ジェット機の開発を引き継ぎ、戦後にはSu-9 ?K?を成功裏に飛行させたが、この機体も、またその発展型も量産化を認められなかった。加えて、大型後退翼機のSu-15 ?P?の墜落、Su-17 ?R?の開発失敗を拠り所にソ連中央よりサボタージュを行ったとして批判され、設計局は閉鎖が命ぜられた。

後退翼とデルタ翼
スホーイに再びチャンスが巡ってきたのは、マッハ 2クラスの新型大型戦闘機の開発に際してのことであった。1953年3月、スホーイに航空産業省第1設計局(OKB-1;ОКБ-1)の設計主任の任に就くよう指令がおりた。当時、他局を押しのけて主要な戦闘機設計局となっていたミグ設計局は空軍の主力戦闘機となるべき小型の超音速前線戦闘機の開発で手一杯であったため、スホーイに大型の前線戦闘機と防空軍向けの迎撃戦闘機の開発が命ぜられた。これらスホーイの大型機は、ミグの小型機よりも大きな収容力を生かしてより高い能力を持つ機体としての完成が期待された。設計局は、その年の末に自身の根拠地となる第51工場を受給された。

当時はどの国でも超音速における航空技術に関してはまったくの暗中模索というような状態であった。ソ連では、その中でも特に「後退翼」か「デルタ翼 (三角翼)」かという議論に結論が見出せないでいるところであった。そのため、ミグ、スホーイ両設計局には同じ胴体・尾翼を利用してそれぞれの翼型を持った機体を試作することが命ぜられた。

このときミグで開発されたデルタ翼機は、のちに超音速機としては最大の生産数を達成することとなるMiG-21シリーズへと発展した。後退翼機(Ye-2)は量産されなかった。ともに空軍へと配備されることになる同クラスの戦闘機が平行して生産される必要はなかったためであるといわれる。一方、スホーイで開発された後退翼機S-1、S-3のうち前線戦闘機として開発されたS-1は、目標通り大型の前線戦闘機Su-7として完成した。Su-7シリーズは、次のSu-7B以降ソ連初の本格的戦闘爆撃機へと発展した。Su-7シリーズは、ソ連空軍をはじめワルシャワ条約機構諸国やアジア・アフリカ諸国で多数が配備された。

一方、これと同じ機体を持つデルタ翼機T-3(Т-3)は、防空軍向けの迎撃戦闘機として設計された。「T」(テー)は、ロシア語で「三角形の」を意味する形容詞「треугольный」(トリウゴーリヌィイ)を表している。また、デルタ翼の研究機は「トレウゴールカ」(Треуголкаトリウゴールカ:「正装用の三角帽」のこと)と渾名された。のちにSu-9と命名されることとなるこの機体は、姉妹機のSu-7とともにスホーイ設計局の復活を担った重要な機体となったといえる。

T-3は1954年、後退翼機S-1やS-3と同時期に設計局で開発が始められた。T-3に平行して、前線戦闘機型となるT-1も設計されたが、こちらはS-1の採用を以って開発中止となった。一方のT-3の開発は、先に開始されたS-1の開発を追い越し進行した。

T-3の開発
T-3の機体は、中央航空流体力学研究所(TsAGI)の研究をもとに設計された基本構造をもっていた。平行して開発されたのちのMiG-21も同じ研究をもとに設計されたため、両者はよく似た構造をもつ機体となった。

T-3は当初、「アルマース」(Алмаз:「ダイヤモンド原石」の意味)レーダーを搭載する機体として設計された。これは電波の測距部と捜索部が分かれた電波探知装置(レーダー・ステーション) で、そのためT-3は特異な形態の機首をもっていた。T-3初号機は、「アルマース」レーダーの派生型のひとつである「アルマース3」(Алмаз-3)を搭載して完成された。測距用アンテナのレドームは超音速飛行向けに先端を尖らせたものとなっており、従来のソ連機に範を得た円筒形の空気取り入れ口となった機首の上面に設置されていた。一方、捜索スキャナーのレドームは小型で先端の丸い形状のものであった。T-3はA・リューリカ=サトゥールン製ターボジェットエンジンAL-7F(АЛ-7Ф)1基を搭載した。T-3は1956年に初飛行を果たし、トゥーシノの航空パレードで同機を「発見」したNATOはこの未知の機体に対し「フィッシュポットA」(Fishpot-A)というコードネームを付与した。

レドームを装備したT-3やMiG-19P/PMでは、空気取り入れ口へのコーンの設置がMiG-19Sのようにたんなる円筒形の空気取り入れ口をもつ機体形態より飛行速度を無理なく高めることに貢献することが偶然にも明らかになった。そのため、Su-9以降のソ連戦闘機では円筒形の空気取り入れ口の中央に外部圧縮型のノーズコーンを設置する方式が多く採用されるようになった。ノーズコーンは斜め衝撃波を生むことから空気取り入れ口に押し込まれる空気の圧力損失を少なくするというショックコーンの役割を果たしており、このショックコーンが航空機の超音速突破へのひとつの鍵となることはスホーイに超音速迎撃戦闘機の開発の命ぜられた1953年当時には一種公然の秘密であった。機首に空気取り入れ口を設けてノーズコーンを取り付けるこの方式は飛行性能的にはたいへん優れており、もっとも効率的な形態であるともいわれている。しかしその反面、コーン内のスペースが限られるためレーダー等の機器の搭載が困難となり、ソ連機はノーズコーンの改良と大型化の試行錯誤を続けることとなった。オイルショックを契機に電子機器の小型化・効率化が推進される1980年代まで、電子機器の性能の高さは機械の大きさに比例するといってもよいほどで、そのためより高度のレーダーなどを装備しようとした場合それ相応の大きな設置スペースが必要となったのである。飛行性能がよくまた手馴れた機体構造であった機首空気取り入れ口に拘ったミグやスホーイなどソ連の各設計局では、他国では見られないような様々な形状のノーズコーンが試作された。また、それを搭載する多くの試作戦闘機も設計され、それらの多くはそれなりの飛行性能を発揮した。だが、やはりこうした改良作業では限度があり、それらの多くは量産の日の目を見なかった。より抜本的な解決が求められた結果、結局は西側のF-4ファントムIIに範を置いたような胴体両側に空気取り入れ口を設置する形態へと流れていった。なお、電子機器の小型化の進んだ現在では小型のノーズコーン内にも高性能のレーダーを搭載することが可能となっており、近代化改修されたMiG-21などは効率のよい機体構造による高い飛行性能と高性能のレーダーによる優れた攻撃能力を持ち合わせた有力な戦闘機となっている。

その後、改良型の「アルマース7」(Алмаз-7)を搭載する研究機PT-7(ПТ-7)が製作されたが、この機体では空気取り入れ口内に設置された捜索スキャナーのレドームは下方へ向かい先端が尖ったものに変更されていた。ソ連ではいまだ測距部と捜索部を統合する技術が開発されておらず、この機体に搭載された「アルマース」も相変わらず電波の測距部と捜索部が別になっていた。そのため、PT-7の機首の外見はまるで口を開いた鳥の嘴のようであった。この機体では、兵装としてK-7LまたはK-5及びK-5Mをもとにして開発されK-6V空対空誘導ミサイル(ロシア語では「ミサイル」ではなく「ロケット」と呼ぶ)を搭載する予定で試験が行われた。しかし、当時ソ連が保有していたレーダー・ステーションとそれに組合される兵装はいずれも満足のいくものではなく、「アルマース」を搭載した実用化研究機であるこのPT-7やPT-8(ПТ-8)もそれら自体は失敗作に終わった。とはいえ、これらの機体の研究で得た経験や成果はその後の機の開発に大いに生かされることとなった。
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T-43での研究
設計局名称T-43(Т-43)と呼ばれた大型デルタ翼機は、1958年前半期に量産化に向けた開発機であったPT-8をベースに製作された。T-43シリーズはT-3シリーズのひとつに数えられている。T-43はまずT-43-1からT-43-6まで6つの機体が製作され、それらにはAL-7Fの改良型で当時ソ連最大の出力をもっていたAL-7F-1(АЛ-7Ф-1)1基が搭載された。

T-43 の開発当時ソ連にあったレーダー・ステーションは、従来のMiG-17PF/PFUやMiG-19P/PM迎撃戦闘機に搭載されていた「イズムルート」(Изумруд:「エメラルド」の意味)またはRP-1(РП-1)、RP-2(РП-2)および改良型のRP-5(РП-5)と呼ばれる小型で電波発信部と受信部が分離されている形態のもの、Yak-25迎撃戦闘機に搭載されていた「ソーコル」(Сокол:「鷹」の意味)またはRP-6(РП-6)と呼ばれる大型のもののわずか2系統のみであった。いずれのステーションも、新しい迎撃戦闘機への採用には不適であった。イズムルートは小型かつ形状が特異で発展性に乏しく、逆にソーコルはあまりに大きすぎてT-43への搭載は困難であった。当時ソ連でレーダー開発を行っていた唯一の機関であった第17モスクワ科学試験研究所(NII-17)では、新しいレーダー・ステーションである「ウラガーン」(Ураган:「突風」の意味)と「パンテーラ」(Пантера:「豹」の意味)の開発を進めていたが、それらの計画は遅々として進まなかった。そこにきて、軍事産業省の第1設計局で新たなレーダー・ステーションの開発が行われていることが明らかになった。有翼の空対地ミサイルのシステムに関する研究の中心であったこの設計局では、主任のA・A・コーロソフ(А.А.Колосов)を中心に、十分にコンパクトなレーダー・ステーションTsD-30(ЦД-30)が完成された。TsD-30には、ピョートル・ドミートリエヴィチ・グルーシン(Петр Дмитриевич Грушин)の率いる航空産業省(MAP)第2設計局(グルーシン設計局)で開発された空対空誘導ミサイルシステムK-5(К-5)の運用能力が確保されていた。また、TsD-30は「ヴォーズドゥフ1」(Воздух-1:воздухは「空気」の意味)自動誘導装置を搭載し、この装置は低高度目標への攻撃能力を大幅に高める役割を担った。発信部と受信部を統合するシステムが開発され、このレーダー・ステーションの寸法はT-43の可動式ノーズコーンに無理なく収納できるものとなった。この派生型のおかげで、1957年までにソ連で制式武装に採用された空対空誘導ミサイルは唯一K-5だけであると言われた。その後、改良型のK-5M(К-5М)や1957年10月にMiG-19PMにおける検査試験を成功裏に完了したK-5MS(К-5МС)がTsD-30の主要運用兵装とされた。のちに、K-5はRS-1U(РС-1У)、K-5Mは RS-2U (РС-2У)、K-5MSはRS-2US(РС-2УС)にそれぞれ改称された。

T-43シリーズではレーダーシステムの試験のほか機体の飛行特性の試験も行われた。その過程で、T-43-1のノーズコーンにはESUV-1(ЭСУВ-1)電気水圧システムが追加搭載された。1960年1月には、T-43の高い速度及び高度性能に比例して増加する燃料消費量を賄うために翼内にもインテグラル式燃料タンクを設置した機体としてT-43-12(Т-43-12)が開発された。インテグラル式燃料タンクを機体構造に組み込んだのは、この機体が世界初となった。その後、西側各国でも機内燃料タンクのインテグラル化が進められた。だが、翼内にまで燃料タンクを設置した戦闘機はあまり例がない。これは、T-43がよほど燃料を大量に消費したことと、それに対処するために設計者が大いに努力を行ったことの表れである。各種試験においてT-43は高い評価を得、その研究成果は量産へ向けたT-3の完成に反映されることとなった。

Su-9-51の完成
1957年11月28日の定期の政府決定では、第51設計局(スホーイ設計局)へAL-7F-1装備のT-3へのTsD-30とK-5MSの艤装が命じられた。1958年4月にT-3-51が、TsD-30とK-5MSミサイルを搭載する試作機として完成された。T-3-51は、1958年3月に初飛行した後退翼の姉妹機Su-7と主翼以外はよく似た形状の機体デザインに落ち着いたが、レーダー・ステーションを搭載したため機首はSu-7よりも若干延長されていた。なお、T-3-51に平行して「ソーコル2」をもとに開発されたレーダー・ステーション「オリョール」(Орел:「鷲」の意味)を搭載するT-3-8M(Т-3-8М)も開発された。この機体はK-5MSよりはるかに優れたレーダー誘導または赤外線誘導空対空K-8M(К-8М)を搭載した。1958年から1960年にかけて、これらの機体は設計局で実用試験に入り、それぞれ各種の変更を経て量産化へと向かっていった。T-3-8MはT-47となり、のちSu-11として完成された。

1960年10月、最終的にT-3-51がSu-9-51(Су-9-51)として制式採用に漕ぎ着けた。機体はSu-9(Су-9)と命名された。一方、搭載するレーダー・ステーションTsD-30T(ЦД-30Т)はRP-9U(РП-9У)、K-5MSミサイルはRS-2USという正式名称を付与された。Su-9-51に対し、NATOは「フィッシュポットB」(Fishpot-B)というコードネームを付与した(資料によってはT-43に対して付与したことになっている)。このコードネームは、量産型のSu-9にも引き続き使用された。